最大級の詐欺、中央銀行制度

現在の世界での最大級の詐欺は中央銀行の存在であるという。


テレビのニュースでもよく聞くように確かにニュースキャスターは米国FRBが何か政策を決めたとき、「アメリカの中央銀行に当たるFRBは・・・」 という。


国家には中央銀行があり、日本にも日銀が存在する。
以前も申し上げたが、その国の中央銀行がその国のものであるとは限らない。


典型的なのは米国である。
アメリカの中央銀行FRBは米国国家のものではなくある一部の富裕層のものである。
つまり私的銀行なのだ。
株主がいて、そのものの意向で動くのである。


その存在に何の疑問も感じていなければ、当たり前でしょ、それが世の中の仕組みだなどと考えているなら、そのことに疑問を持ってほしい。


つまり世界通貨の番人が実は、詐欺の大元なのだ。
つまりマネーの支配するこの世の中そのものが支配階級にうまく使われてしまっているのである。
私は以前からこのことを学習し、気が付いていたが、所詮この世で暮らすものなので、この仕組みに詐欺とはわかっていても準じて生きていくしかない。
その中で何とかうまくやろうと考えてきたが、もうさんざん、この世界の辛苦をなめてきたのでたまには本音をもらしたい。


今日はFRB設立の経緯について簡単に書くことにする。


最初に申し上げるが、この詐欺システムをわかっていて、過去米国大統領のうち、2人がこのシステムの廃止を試みたが、残念ながら2人とも公衆の面前で頭を打たれ命を絶っている。
エイブラハム・リンカーンとジョン・F・ケネデイである。


1781年のFRBの前身の設立から200年以上でたった2人である。
この2人の勇気を称えたいが、残念ながら今現在、私たちはマネーによって自分の行動、ふるまい、性格、時間の使い方、人との付き合い方、信念、まで支配されてしまっている。
そうでなかった世界に生まれ変わりたいが、この世界で生きていくしかない。
悔しい。


そのシステムの悪い部分は肥大し、もはや崩壊寸前と言われて久しいが、各国も必死で現行のシステム維持を図るのでそう簡単にはこのシステムは覆らない。
革命亭改革はやはり血が流れるような大転換を経ないとなせないのである。





以下ジム・マースの文献より抜粋して記します。ちょっと長くなってしまいましたが要約しないで原文のままにします。




中央銀行の是非をめぐる論議は、建国の父トマス・ジェファーソンアレクサンダー・ハミルトンの論争に見ることができる。ハミルトンは、裕福なエリートが監督する強力な中央政府中央銀行を信奉していた。ハミルトンのエリート主義的な理想を支持する者たちは、連邦党を結成した。
「国際銀行家の手先」とも言われたハミルトンは、「国債は、過度でなければ、国民的恩恵になり得る」と主張した。
ジェファーソンは欧州史から、中央銀行はすぐに国家の支配者となることを知っていた。「私は、銀行家というものは軍隊より危険だと心から信じています。そして資金調達の名の下に、出費を後世の子孫が肩代わりするという仕組みは、大規模な未来詐欺です」と、ジェファーソンは1816年、ジョン・テイラーに書き送っている。「彼らは既にマネー貴族を作り上げています:::銀行から通貨発行権を取りあげて、本来帰属すべき者のところへ戻すべきです」
さらにジェファーソンは、中央銀行違憲だと考えていた。「私は、憲法組織は以下の前提に基づくべきと考えます。『この憲法によって合衆国に委任されず、また州に対して禁止していない権限は、それぞれの州または人民に留保される(基本的人権について記された合衆国憲法修正第10条より)』この境界から一歩踏み出す、特に議会から権力を引き出すことは、他でもなく、限りない分野の権力を手に入れることです。銀行の設立、およびこの法により前提とされる権限は、私の見解では、憲法によって合衆国に委任されていません」
しかし、ハミルトンと裕福な友人たちは勝利を手にしていた。憲法起草前からすでに、バンクオブノースアメリカという銀行が、大陸会議(独立戦争前、北米植民地が英国本国への対応を検討するために各州の代表が集まった)議員のロバート・モリスによって設立されていた。1781年のことである。モリスはこの銀行を、イングランド銀行を真似て中央銀行にしようとしたが、3年しかもたなかった。虚偽行為の横行とインフレが、裏付けのない「不換紙幣」(発行元の信用に基づいて流通しており、本位貨幣である金貨や銀貨との免換が保証されていない)を生み出したためである。
ハミルトンは諦めなかった。1791年には中央銀行を作る次の試みとして、ジェファーソンらの強い反対を押し切って、第一合衆国銀行を設立した。
第一合衆国銀行もまたイングランド銀行をモデルとし、政府と銀行利子とを結びつけた。銀行資本の20パーセントは連邦政府を通じて調達し、残りの80パーセントは、欧州のロスチャイルド銀行一族など、外国人を含む個人投資家から借り入れた。この銀行も、連邦部分準備券の発行によってインフレを招いた。金融家は儲かったが、市民は物価高騰に苦しんだ。1811年、この銀行の公認は初年の期限を満了し、更新は上院・下院ともに1票差で否決された。
しかし1812年、混乱した財政状況下で(米英)戦争の費用をまかなうため、議会は1816年からの初年を期限として第二合衆国銀行を公認した。1832年アンドリュー・ジャクソン大統領はこの中央銀行の公認延長を求める法案に拒否権を発動し、「銀行戦争」に突入した。公認期限は1836年に切れた。ジャクソンは、アパラチア山脈より西から初めて出た大統領だった。彼はこの中央銀行違憲であり。「共和国の災難のもとであり、国の自由を脅かすマネー貴族を肥やすために作られたに等しい」と厳しく非難した。
1835年、リチャード・ローレンスという男がジャクソンに対して米国初の暗殺を企てたのは偶然ではないだろう。
しかし、ローレンスのピストルは不発に終わった。逮捕された彼は「欧州の権力者と接触していると供述した。
中央銀行を復活させようという試みは、他にもあった。
しかし、米国史上3番目の中央銀行となる1913年の連邦準備銀行設立まで、いずれも成功しなかった。連邦準備銀行(FRB)の創設が文字通りの、「陰謀」であることは、数多くの文献に記されている。
1980年代に入るまでFRB中央銀行と言われることはなかった。
しかし今日、ニュースキャスターはそのように言いならわしている。
この銀行家たちの最新の企みは、 「信用不安」として知られる1873年、1893年、1907年に起こったローンの取り消し・更新の拒否を受けて生まれた。
これらの不自然なパニックが、中央銀行システムを求める動きを呼んだのである。
言うまでもなく、中央銀行の概念は当時非常に評判が悪かった。
人々は、金融システム全体を中央集権的に1つの機関が支配することに、当然の恐れを抱いていた。
1907年の恐慌を受け、議会は国家金融委員会を設立した。
米国の銀行システムを完全に刷新する委員会である。
共和党の院内総務で、財政の専門家であったネルソン・オルドリッチが、国家金融委員会の委員長を務めた。
オルドリッチは他に2つの委員会を立ち上げた。
1 つは米国の金融制度を深く研究するもので、もう1つは欧州の中央銀行制度を調査し、その活動を報告するものだった。
ドイツの銀行制度を視察したオルドリッチは、非常に感心した。今や、中央銀行こそこれまで支持してきた米国政府認可の保税制度より望ましいと考えるようになっていた。
中央銀行制度が、当時の各国の政治家たちから強い反発を受けたのも不思議はない。彼らの多くは中央銀行そのものに深い疑念を抱いていた。オルドリッチはJ・P-モルガンら裕福な銀行家たちと深い関係にあるうえ、娘婿は他でもないジョン・D・ロックフェラーで、思考が偏っている、とおおっぴらに非難する者もいた。
1910年、オルドリッチはJ・P-モルガン、ロックフェラー、クーン・ローブ(リーマン・ブラザーズアメリカン・エクスプレスに買収され、現在は存在しない)といった銀行を代表する重役らとともに、10日間にわたってジョージア州のジキル島にこもった。メンバー
は、フランク・ヴアンダーリップ(ニューヨークのナショナル・シティ銀行頭取)、ヘンリー・デイピソン(JPモルガン商会代表)、チャールズ・D・ノートン(ニューヨークのファースト・ナショナル銀行頭取)、そしてのちにウッドロー・ウィルソン大統領の補佐官を務め、物議を醸す外交問題評議会を創設したエドワード・マンデル・ハウス大佐(「大佐」はあだ名で、軍経験はない)らが名を連ねた。







ジキル島の会議では、クーン・ロープのドイツ人銀行家、ポール・ウオーバーグが議事録をまとめた。後の連邦準備法の草案は、ほぼ彼一人の手になるものである。
フランク・ヴアンダーリップは、『農家の息子から金融家へと題した1935年の自伝の中で、
ジキル島の記憶を振り返っている。
「私は陰謀家のように人目を忍んだ。まずないとはわかっていたが、 もし人に知れれば、私たちの時間と労力は水の泡となる。他ならぬ私たちが集まって銀行法をまとめていたと明らかになれば、そのような法案が議会を通る見込みはない。
ジキル島への秘密旅行が、後に連邦準備制度となる案が生まれるきっかけとなったといっても過言ではないだろう」
ジキル島会議の歴史的・経済的重要性は疑う余地もないが、一般市民はまったくこのことを知らずにいた。政府でさえ、連邦準備法案が可決されてからまるまる3年も経った1916年に、パーティー・チャールズ・フォーブスというジャーナリストの件の記事を書くまで、把握していなかった。
オルドリッチは、政府の監督と影響をほとんど受けない民間銀行の設立のため、精力的に戦った。強い反発を察知した彼は、「オルドリッチ案として知られるようになる案を提案した。これは国家金融委員会を継承する国家準備連合の設立を求めるものだった。共和党員とウォール街の銀行家の大半はオルドリッチ案を好意的に受け止めていたが、議会を通過するには支持が足りなかった。
オルドリッチは「東部エスタブリッシュメント」の典型と見られており、彼の案は南部、西部双方から徹底的に批判され、嘲られた。国を圧倒的に牛耳っている裕福な家系と、大企業が、提案されている国家準備連合を支配するであろうことが見抜かれていたのだ。
民主党保守派は、民間所有の分権型準備制度はウォール街の魔手のほしいままにさせるとして激しく抵抗した。ネプラスカ州の民主党大統領候補、ウィリアム・ジェニングス・ブライアンはこの案を評してこう言った。「オルドリッチの通貨スキームの裏には、強大な金融家たちがいる」。ブライアンは、この法案が通れば銀行家たちが「われわれの国家財政を握ることで、すべてを完全に支配する」と鋭く指摘した。
共和党員のなかにも、オルドリッチ案に反対した者がいる。共和党上院議員ロバート・M・ラフォレットと、下院議員チャールズ・リンドバーグ・シニア(飛行家リンドパーグの父)は、この法はウォール街を優遇する身びいきだと非難した。「オルドリッチ案はウォール街案だ。『マネートラスト(金融利権)』が存在している」とリンドバーグは言った。「オルドリッチ案は、明らかにトラストの利益になるスキームだ」。この疑惑に対して、下院銀行通貨委員会が開かれた。「プジョー公聴会」として知られるものである。これにより多くの国民が、米国のマネーはすでに、ウォール街のほんの数人の手に握られているということを確信した。委員会の報告書にはこうある。「もし『マネートラスト』が明確に定義された一握りの金融エリートたちのコミュニティを意味するとしたら、結果として、ふくらみ続ける膨大なマネーはほんの数人に集中する。(中略)今日この国には、そのような状況が存在する」
商品取引所はこうした見解に反論すべく、国民にオルドリッチ案を支持させるよう、ポール・ウオーバーグに委員会を指揮させた。当時の米国内の必州に事務所を置き、中央銀行とその仕事、政策、理想と理念についての宣伝文書を発行した。
新しく選ばれた大統領ウッドロー・ウィルソン民主党であり、両院とも民主党が多数派となった。共和党員のオルドリッチによる法案は「連邦準備法」と名前を変え、下院銀行通貨委員会委員長のカーター・グラスによって提出された。
オルドリッチとジキル島会議参加者らは、抜け目なくこの法案に声高に反対を唱えてみせた。中身はオルドリッチ案そのままなのにである。
この法案の支持者にとってのもうひとつの問題は、投票が早期に行われると民主党のウィルソンは共和党のハワード・タフトに勝てない可能性があるということだった。すでにタフトは、いかなる銀行法にも反対することを公約としていた。そこで過去の成功事例にのっとり、前大統領セオドア・「テデイ」・ルーズベルトが担ぎだされた。タフトと同じく共和党ルーズベルトを、第三の候補者として擁立したのである。ルーズベルトが結成した新党「進歩党」への主要な献金者2名は、J・P-モルガンと深い関係にあった。この企みは見事成功した。ルーズベルト共和党支持層を分断し、タフトから票を奪った。おかげで、連邦準備法にサインすると公約していたウィルソンは、僅差で当選することができた。

≪ATSメンバーのコメント≫
私が恐れているのは、(次に)危機が起こったとき、それに対する暴動が戒厳令を敷く口実となるのではないかということだ。
1930年代の金の没収のようなことが、また当たり前になるだろう。金を隠しておくことは簡単だが、換金するのは難しいだろう。
バレれば、政府の「戦略備蓄」に供出しなかったことで罪に問われるはずだ。こんなことはあまり言わないのだけれど
私が描いている未来には希望がない。広がる金融恐慌、大銀行の取り付け騒ぎ、政府の失敗、有権者の無関心、上げればきりがない。
残念ながら、私は現在の状況に全く希望を見いだせないし、そうなるように事態は仕組まれているのだろう






チャールズ・リンドバーグは、法案が通過する24時間前に議会でこのように発言した。
「これは化けの皮をかぶったオルドリッチ案だ。この銀行法によって犯された。
銀行は通貨を発行する特権を享受し、好きなだけ請求してきた。これは特権階級に対し
いまだかつてどんな政府も与えたことがない、もっとも奇妙で危険な便宜である。
銀行は私有銀行だ。政府以外が発行する法定通貨など、認められるべきではない。
人民は政府である。ゆえに憲法が定めるように、政府が通貨の価値を管理すべきである」
テキサス州の下院議員、ロバート・ヘンリー率いる民主党議員のグループが決起し、「マネートラスト」が通貨発行権を手にする前に解体することを要求した。
ヘンリーの支持者は、大銀行が優遇されるなか、地方銀行が政府の保護なしに運営しなければならないことに強く反発した。
グループは法案を潰す寸前だったが、ウィルソンが「この法案の成立後に反トラスト法を提案する」となだめてその場を収めた。
ウィルソンは1913年12月23日連邦準備法に署名した。
クリスマスの2日前のことで、すでに休暇で帰省した議員が多く、一般的な市民の関心も低かった。「議員は出し抜かれ、はかられ、だまし討ちにあった。見事な政治心理攻撃だった」と、「マネーを生みだす怪物』の著者G-エドワード・クリアインはコメントしている。