僧侶のつぶやきから
お寺の御坊様にも悩みはあった。
最近の御坊様のつぶやきからカウンセリング等の受け方、受け身のあり方について考えてみたい。
悩み多きこの頃、御坊様にしろ、ちまたにあふれるヒーリングやカウンセリングなどがありますが、ある御坊様はたった一回お話をしただけで「あっ、そうですか」とか、一回で当たった、外れたということだけを求めてくるような人たちの多いのに辟易しているという。
このような人たちの願いは神様に届くことはないという。
このような人たちは努力して自分の人生を変えていこうという気概に欠けているという。
そもそも僧侶たちは神様の声を聴くために何日も断食したり滝行などを一生懸命する。それですら実際に神の声を聴ける領域まで達することは我々庶民からしてみれば想像を絶する域だ。
それなのに神様なんだから願えば片づけてほしいなどという感覚の人が多くて失礼であるということだ。
確かに私たちは自分の能力を超えるような時、誰かに頼んだりするわけだが、お父さんなんとかして、社長さんなんとかして、総理なんとかしてください、大統領!
などと権力と経験にすがるが、彼らだってなんでもいいように片づけられるわけではない。
一歩おいて考えてみれば同じ人間なんだから、できるわけないのだ。
神の世界でも同じだとこの僧侶は説く。
このような社会常識のない人は今年からは落とされるという。
昨今では、たくさんの僧侶が心の大切さを説いてきた時代だ。それなのにまだわからない人はそろそろ見捨てられるという。
はっきりいって3割の人しか生き残れないとこの僧侶はいう。
世の中には苦労も努力もしたくない人が多すぎるという。
生きることとは、プレッシャーと戦うこと、苦しみと戦うことなのです。目の前に現れたハードルを越えてやろうという意欲がなければ所詮、それまでなのである。
私たちは自分の不幸を誰かのせいにして逃れている。
自分の冷え症を他人のせいにしても仕方ない、と言われればわかるが、自分に降りかかる不幸もおなじだということがわからない。認めたくない。
2012年はマヤカレンダーの最後の年とか、1999年にはノストラダムスの大予言などがあり、地球の崩壊とか、人類の滅亡たか騒がれたが、これらもみんな人間の堕落のせいでおこるという。
自分たちの心や行いのせいで今の事態をまねいているのにそれを自然のせいにするもっとも無責任な生き物だと嘆く。
確かに現状はどうやっても自分の努力では世界が変わるには微力すぎる。ならこの世界を受け入れ、この海を泳いでいくだけの力を身につけるしかあるまい。その泳ぎ方はお金ではないはずだ。お金などと考えている者はまだわからないのかといわれてしまうであろう。
少なくとも私はそう主張したい。
あとは精神力ということだ、どのように物事をとらえるか、感じるかという超越的な視点から眺められなければおしつぶされてしまう。
かなしいかな、そのような大切なことは、学校や今の一般的な社会環境からは学ぶことは難しいようである。
今日はいつもとは別の観点から書いてみました。
そう闇の権力ばかりのにせいにしていても始まらないからです。
先日、私の極めて親しい、ドライバー仲間が人身事故をおこしてしまいました。
彼にもこのハードルを乗り越えていくだけの勇気を望みます。
我々はリスクと紙一重なのです。