ゼロ成長でも所得の維持を

最近、成熟した社会においては飛躍的な経済成長はもうないという認識を表現している著者を多くお見受けする。

事実、私もかなり以前から感覚として思っているんだが、現実そう思う。

たとえ何か商品がヒットして爆発的売れ行きになってもこのグローバル化した世界においてはすぐに安く生産できる国を探し、そこへ生産拠点を持っていきすぐに廉価での販売になってしまうからだ。
その国もどんどん変わる。
最近は中国からベトナムにうつり、さらに今、ミャンマーが脚光をあびているようだ。
そういう状況だから企業はその製品の開発費用やそこに注いだ人件費を回収できない。
とてもじゃないがそこからさらに新しい開発のための予算を捻出できない。

つまりもう、ものづくりで発展してきた国などという過去の成功体験は捨てなければいけないのである。
それなのに政治家たちはまだ官僚も含め、△%の経済成長をベースになどとものごとを考えている。
そういう考え方をされると最近頭にくる。

成長しないんだからその考え方は最初から破綻しているのだ。
成長できないんじゃなくてもう成長はしないのだ。

これからは全く新しい価値観の変遷がなければこの状況は脱出できない。

その価値観の変化が来るまでは、低成長でも幸せな社会を維持できるという見本を世界に見せなければならないと感じる。

むしろ全く成長しなくても所得というか生活レベルを維持できるという社会をつくらなければならないと思う。

それを示してこそ、世界に誇れる成熟社会を達成したとよろこべるのではないだろうか、

つまり成長を基本とした現政府のやり方は根本的に違う方向を向いているし、達成など不可能なのだ。

これからの社会のキーワードは「ゼロ成長でも所得を維持でき幸せで地域での調和のとれた社会」だ。


私旅好きで昔からいろいろなところを旅しているが、残念なことがある。
それは今はどの駅に降りても、どの街にいっても個性がなくて金太郎飴のような造り、顔になっているということだ。
昔は地方地方で駅舎も個性があったし、食べ物家も個性があった。
しかし今はどこも同じような駅ビル構造と外に出ても東京の延長のチェーン店が並んでいる。
旅をしていてもおもしろくもなんともない。
昔は駅舎を降りる度にどきどき、わくわくしたものだ。

食べ物やに入るときも、知らない店だから恐る恐る入るがうまいものに巡り合えた時の喜びはひとしおだ。

今はチェーン店なので最初から味がわかっている。


ドキドキ感はまるでない。
つまりおもしろくないのだ。


日本は個性を失くしてしまった。

これが経済発展だったのだろうか、